looking for the part of light in the KOYA

人から影響を受けてはいけない

ふと思い出したことがあった。
最初に入った会社の研修の時に上司から、「お前は人に悪影響を与える」と言われた。
僕はそんな奴の言葉は聞き流していたが、やはり思い出すと気に障る。
そして昨日、そんな事を言っていた上司の元ネタを知った。
京セラの稲盛和夫だ。

人には「自燃性の人」「他燃性の人」「不燃性の人」がいる。組織にとって最も必要な人は「自然性の人」であり、この人たちが「他燃性の人」に火をつけてくれるのです。そして逆に一番どうしようもないのが「不燃性の人」です。
と言ったそうな。
人は自然性になるべきで、それが道徳的にも素晴らしいことなのだと。
そして人間のランクは「自燃性の人」>「他燃性の人」>「不燃性の人」なのだと。

上司は、僕は不燃性だからいらない、と言っていた。
そして「自燃性」になれないらばせめて可燃性であってくれと言う事のおぞましさ。
他人と同じ価値観をもって影響されろ、と言うことに何の躊躇もないのです。
(だってそれがプレジデントに載っているから)

会社経営上の枠内で言っているのなら理解できるのだけど、この手の人は人生哲学や道徳観としてマジで言ってるから怖い。そして怒りを覚えます。

敵とは、この手の自覚のないサイコパス的というかモラハラな者たちなのです。

« 前のページ  ホーム  次のページ »

ドーピングの季節

Amazon unlimitedが最高すぎる。
「10冊分の本棚」を1000円で購入し、その本棚の中身は入れ替え放題だ。

そこには最新のビジネス書や、普通に買ったら5000円以上するような技術書も含まれる。
ほぼ無尽蔵と言えるような情報リソースへ非常な安価でアクセスできるという事に興奮しないでいられるような人間とは、絶対的に価値観が合わないと言わざるを得ない。

今になって再び思うのは、例えば僕が20代の頃にオナ禁をしながら感じていた興奮の源泉である。それは大量のテキストによって構成されていた僕の精神構造から醸成されていた何がしかの歪みから湧き出していたのだ。インターネット初期のテキストサイトや、視力を悪くしながら文庫本を布団の中で読んだ、我が前期青春の延長線上に、僕の純粋さの中心はいまだに浮かんでいる。というよりも、それは実体のないゴーストだ。そこには、常に絶対的に何もない。現実世界に存在しえないものが置かれるための場所として、特権的に絶対的な空座になっている。それに代わるものは現実世界には存在しえない。
僕はいまだに、それを信じ続ける以外にないのだということに再び気付くのだった。

たとえばポケモンGO。
あれはやはり邪悪なものだと言わざるを得ない。あれは空想力を醸成するものではない。僕もインストールしてちょっとやっていたけど、すぐに消した。NIANTICに米国情報機関が出資している事は公然の事実である。
同様にAmazonが危険ではないといえる根拠もないのだけれど、まだお金を払っているだけマシのように思う。

とかなんとか言っている僕が今感じているこの感覚は20代の感覚に近い。そんな気がしている。
なぜなら僕はドーピングしたいと思って、また新しいサプリを飲み始めたからだ。DHEA。男性ホルモンを増やす効果のあるやつだ。
脳みそが死んでいくのがつらい。

とにかく言いたいことは、興味のある情報を大量に摂取して、脳が自動的に情報を処理するのを待てという事だった。
僕にとっては情報禁は悪いパラノイアを増大させることにしかならない。

« 前のページ  ホーム  次のページ »

月に祈りを

人間は太陽の光の中で祈るか、暗闇のなかで祈るかを選ぶことができます。

僕はそれは「光と影」のようなものだと言っているのではなくて、
これは、太陽に祈るか月に祈るかの違いに表れるのではないかとふと思いました

古代から人類は太陽神を信仰してきたましたが、それと同じくらいに月も崇めてきました。
宗教がどうあれ、猿だったころからずっと地球上で生活してきた人間の深層心理には、
昼の支配者は太陽であり、夜の支配者は月であると刻み込まれています。

太陽はすべての生命の源だということに間違いはありません。
太陽の下で活動することが命そのものなのだから、太陽を崇めるのは当然です。
だけど、太陽が沈んで夜になります。
夜になると人間は暗闇のなかで眠りにつこうとするとき、どれだけ仲間がいようが、
眠りにつくのは自分一人の行為であり、そのとき月の光が顔を照らります。
そんな時、人類はこれまで何千億回も、「なぜ自分が存在するのか」を考えてきました。

太陽への祈りが「大いなるもの」への自己同一化を求めるものだとすれば、
月への祈りはその逆に「個性化」や「神秘主義」を求めるものではないかと思います。

生物としての人間を考えても、大いなる世界の流れに従うと同時に、
人間個人は出来る限りの個別化・特殊になろうとすることが、結局は全体の進歩に繋がるのでしょう。

そんな事を思っていると、私は鬼束ちひろの「月光」を思い出すのですが、
改めて、何度も思うのですが、本当によくできた曲だと感心します。間違いなくこの曲には神が宿ってます。

I am GOD'S CHILD この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field? こんなもののために生まれたんじゃない

所与の状況において、それを受け入れず、個人主義的な精神や反骨精神を賛美しつつ、
「腐敗した世界に堕とされた」などとグノーシズムを漂わせつつも、
しかし神の子であるというのは、自分が根本では神(光)と断絶していない事を信じています。

問題なのは「月への祈り」という元型的な行為であって、鬼束ちひろという個別の現象ではないのですが。
(現在の鬼束ちひろは、月光の頃よりも声がワントーン低い、くぐもった声になって、月ではなくて悪霊に祈っているようにすら感じられたりもします)

たぶん、こうした太陽への祈りや、月への祈りは、人間の外向性や内向性とも関係があったりするんじゃないだろうかなどとも思ったりもします。
強烈な太陽光の下ではノイズが強すぎて落ち着かないので、静かな夜の光が好きなのです。
そして、ルナティックという言葉があるように、少し狂気を孕みやすいからこそ、惹きつけられるのでしょうか。

« 前のページ  ホーム  次のページ »

よろいど

僕はこれまで自分は無価値だと思っていたし、自分には何か重要なものが欠けていると思っていた。
それは今でも変わりはないのだが、最近は周辺事情が少し変わったことで、
心理面での変化が訪れている。

ようやく僕にも役目が与えられていて、そして僕もそれをやりたいと望んでいる。

僕はずっと長い間、何の役目も持たずにいた。
僕は夢想を続けてきた。
それは別にやりたいことではなくて、ただ時間をやりすごすための夢想だった。
その状態で、僕は僕を導いてくれる強い情動を求めていた。

時間が過ぎて僕が歳をとったことで、夢想を続けられる時間がなくなり、
この自身の置かれたタイムオーバー状態のなかで、僕の能力でなんとか処理できる程度のものが、
僕に割り振られただけの話ではある。

そして僕はもはや情動を求めていない。
ただ僕のチューニングをしてくれるものを求めている。


僕の心の型に光を当てて、その影が形作るものを見つめる。
そのかたちの通りに、僕は現実のなかでそれを作ることしかすることができない。
それ以外の自由はない。

必要なものは、もっと光と、僕の視力。

光が足りな過ぎて、僕はこのところは消沈している。


ところで、僕は光というものは日陰にあるものだと思っている。
僕にとって光とは、心の型にあてて、その影を見るためのものだ。
それは光の不在を告げるサインであるから、明確な指令なのだ。

夏の日の木の葉の黒い揺らめきや、暗い部屋に差し込む光線こそが、真の光のかけらだと強く感じる。


« 前のページ  ホーム  次のページ »

オナ禁といオワコン

とりあえず言える事はヴァガヴァット・ギーターが一冊あれば、
オワコンサイトである2ちゃんねるのスレとかうんこ丸のサイトとかそんなものは一切必要ない。

ヨーガによって自己を制御するだけなのです。

« 前のページ  ホーム  次のページ »

■ プロフィール

SKM

Author:SKM
妄想が世界の超内向的なアラサー。
中小企業勤務の底辺リーマン。

■ フリーエリア

■ 検索フォーム


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。