looking for the part of light in the KOYA

月に祈りを

人間は太陽の光の中で祈るか、暗闇のなかで祈るかを選ぶことができます。

僕はそれは「光と影」のようなものだと言っているのではなくて、
これは、太陽に祈るか月に祈るかの違いに表れるのではないかとふと思いました

古代から人類は太陽神を信仰してきたましたが、それと同じくらいに月も崇めてきました。
宗教がどうあれ、猿だったころからずっと地球上で生活してきた人間の深層心理には、
昼の支配者は太陽であり、夜の支配者は月であると刻み込まれています。

太陽はすべての生命の源だということに間違いはありません。
太陽の下で活動することが命そのものなのだから、太陽を崇めるのは当然です。
だけど、太陽が沈んで夜になります。
夜になると人間は暗闇のなかで眠りにつこうとするとき、どれだけ仲間がいようが、
眠りにつくのは自分一人の行為であり、そのとき月の光が顔を照らります。
そんな時、人類はこれまで何千億回も、「なぜ自分が存在するのか」を考えてきました。

太陽への祈りが「大いなるもの」への自己同一化を求めるものだとすれば、
月への祈りはその逆に「個性化」や「神秘主義」を求めるものではないかと思います。

生物としての人間を考えても、大いなる世界の流れに従うと同時に、
人間個人は出来る限りの個別化・特殊になろうとすることが、結局は全体の進歩に繋がるのでしょう。

そんな事を思っていると、私は鬼束ちひろの「月光」を思い出すのですが、
改めて、何度も思うのですが、本当によくできた曲だと感心します。間違いなくこの曲には神が宿ってます。

I am GOD'S CHILD この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field? こんなもののために生まれたんじゃない

所与の状況において、それを受け入れず、個人主義的な精神や反骨精神を賛美しつつ、
「腐敗した世界に堕とされた」などとグノーシズムを漂わせつつも、
しかし神の子であるというのは、自分が根本では神(光)と断絶していない事を信じています。

問題なのは「月への祈り」という元型的な行為であって、鬼束ちひろという個別の現象ではないのですが。
(現在の鬼束ちひろは、月光の頃よりも声がワントーン低い、くぐもった声になって、月ではなくて悪霊に祈っているようにすら感じられたりもします)

たぶん、こうした太陽への祈りや、月への祈りは、人間の外向性や内向性とも関係があったりするんじゃないだろうかなどとも思ったりもします。
強烈な太陽光の下ではノイズが強すぎて落ち着かないので、静かな夜の光が好きなのです。
そして、ルナティックという言葉があるように、少し狂気を孕みやすいからこそ、惹きつけられるのでしょうか。
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Author:SKM
妄想が世界の超内向的なアラサー。
中小企業勤務の底辺リーマン。

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